天聖経(真の家庭と「家庭盟誓」より)
人間は、誰もが幸福と自由と愛と理想を希求しています。その理想を希求するにおいては、刻一刻と変わる理想は願いません。そのような観点から私たち人間界を見れば、人間は変わるのが常であり、変遷していく歴史の中に生きているのです。そのような観点から見るとき、今世界人類は、理想や自由や真の善などを探し求めていますが、既に壁にぶち当たって疲れ果て、呻吟しているという現象を私たちは直視するようになっているのです。真の自由の主人、平和の主人、幸福の主人、善の主人、愛の主人、理想の主人がいるとすれば、その主人は、私たち人間よりも次元が高く、変わることのない絶対的な一つの中心存在でなければならない、ということを私たちは考えるようになるのです。

教会長のコメント
Comment from
the head of the church
神様を主人とする
人間は、誰もが幸福と自由と愛と理想を希求しています。 そして刻一刻と変わるような理想は願っていません。 にもかかわらずその理想を実現することが出来ません。 それは人間は変わるのが常だからです。 何故人間はこのようになったのでしょうか? それは人間始祖アダムとエバが堕落したからです。 完成して神様と一体となれば神様のように変わらない存在になったはずです。 しかし神様と一体となれず絶えず変わる存在になりました。 それ故既に壁にぶち当たって疲れ果て、呻吟しています。 これが人間の現実の姿です。人間だけではどうすることも出来ません。 それではどうすれば幸福と自由と愛と理想を実現出来るのでしょうか? まず私達人間よりも次元が高く、変わることのない絶対的な一つの中心存在がいなければいけません。 それが私達人間の親である神様です。 神様が私達人間の主人であり、主体なのです。 神様は、真の自由の主人、平和の主人、幸福の主人、善の主人、愛の主人、理想の主人です。 変わることのない神様を主人とし、主体とすることで私達も変わらない存在になるのではないでしょうか? 神様のように変わらない存在となったのがキリストです。 それがイエス様であり、真のお父様です。 それ故キリストを通して幸福と自由と愛と理想が実現するということではないでしょうか? 私達も神様を主人とし、主体とした生き方をするところから道が開けるのではないでしょうか? 壁も壊すことが出来るのではないでしょうか? 私達は真のお父様を通して神様と出会いました。 道は開かれました。 神様を信じ、キリストを信じ真の愛の実践をしようではありませんか。
天聖経(真の家庭と「家庭盟誓」より)
「家庭盟誓」の三節は、堕落していない本然の世界のことを語っています。本然の世界に帰るのです。幼児が成長したのちに結婚するということ、これは、夫婦の位置を尋ね求めていくことであり、父母の位置を尋ね求めていくことです。神様と一体になる位置を尋ね求めていく道です四大心情圏の完成は、人間完成に向かって私がいかなければならない道です。

教会長のコメント
Comment from
the head of the church
神様と一体となる
私達人間は何故生きているのでしょうか? それは人間として完成するためです。 そのように真のお父様を通して生きる目的を教えていただきました。 幼児は成長し、結婚し、夫婦になり、父母になります。 神様と一体になる位置を尋ね求めて行く道なのです。 子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛の完成が目的です。 四大心情圏の愛の完成が目的なのです。 そして四大心情圏の愛の完成によって人間が完成するのです。 問題は如何に四大心情圏の愛を完成するかです。 ところがアダムとエバが堕落することによって真の愛の実践が難しくなりました。 私達の家庭はどうでしょうか? 子女として父母に対して真の愛を実践しているでしょうか? 兄弟姉妹がお互いに真の愛を実践しているでしょうか? 夫婦がお互いに真の愛を実践しているでしょうか? 父母が子女に対して真の愛を実践しているでしょうか? 現実はどうなっているでしょうか? 自己中心の愛、自分勝手な愛になっています。 四大心情圏の愛の完成が難しくなり、人間完成が難しくなっています。 真のお父様はために生きる人生を送られました。 そして私達にために生きることを教えて下さいました。 それはために生きる行動だけではありません。 ために生きる心を持ち続けることです。 夫婦がお互いにために生きること。 父母と子女がお互いにために生きること。 兄弟姉妹がお互いにために生きること。 このことを家庭でどれだけ実践しているでしょうか? 家庭内で実践することが社会に繋がります。 しかし家庭内で真の愛を実践することがどれほど難しいでしょうか? 現実は夫婦が衝突し、父母と子女が衝突し、兄弟姉妹が衝突しているのではないでしょうか? 何故なら人間は堕落しているために心と体が闘っているからです。 神様はご自分の中で闘っておられません。 イエス様も真のお父様も心と体が闘っておられません。 本来の人間はお互いのために生きることが出来るのです。 まず私達は心と体の闘いを治めなければいけません。 そのために家族を愛し、隣人を愛する真の愛の実践が必要ではないでしょうか? そのことによって神様と一体となることが出来るのではないでしょうか? 心を神様に近づける努力をしようではありませんか。 その上でその心に体を近づける努力をしようではありませんか。 神様と一体となるために。
天聖経(真の家庭と「家庭盟誓」より)
平和の世界において根源となるものとは何でしょうか。神様が中心になるのです。神様を中心として、神様のみ旨と神様の創造理想を中心として、その方向を一致させ、目的の一致を成し遂げるところにおいて、平和の世界が可能だったのです。神様のみ旨とは何でしょうか。これは重要な問いです。統一教会では、神様のみ旨は何であるといいますか。第一は、創造理想を完成することです。簡単です。それでは、創造理想の完成とは何でしょうか。四位基台の完成です。四位基台の完成とは何でしょうか。理想的家庭です。簡単なことです。その理想家庭になっているかということが問題です。

教会長のコメント
Comment from
the head of the church
神様が中心になる
平和の世界が何故訪れなかったのでしょうか? それは神様が根源なのに、神様が中心になっていなかったからです。 では何故神様が中心になっていなかったのでしょうか? アダムとエバが堕落して神様との親子関係が切れてしまったからです。 堕落によって人間は自己中心になりました。 神様のように愛し続ける心を失ったのです。 そのため神様はイエス様を送られました。 それ故イエス様は天国の到来を告げられたのです。 それは神様が中心になっておられたからです。 イエス様は敵を許し続けられました。 神様のように人を愛され続けられました。 神様が中心となるところから天国が訪れることを知っておられたからです。 神様のように人を愛するところからしか平和の世界は訪れません。 だからイエス様は神様のように生きられました。 真のお父様も神様のように敵を許し続けられました。 そして私達を愛し続けられました。 神様が中心になっておられたからです。 私達はどうでしょうか? 神様が中心になっているでしょうか? それともアダムとエバのように自己中心でしょうか? 神様が中心になっていれば私達の心は神様の心のようになるはずです。 神様が中心になっていれば私達の家庭は理想家庭になるはずです。 当然神様と切れていれば神様が中心になりません。 神様を意識していなければ神様が中心になりません。 しかし神様を意識していても神様が中心になりません。 それぐらい神様とかけ離れているのです。 どうすれば神様が中心になるのでしょうか? 神様が中心になっていたイエス様、真のお父様に似る以外にないのではないでしょうか? 今からでもイエス様、真のお父様に似る努力をしようではありませんか。 そのためにもイエス様、真のお父様のみ言を信じ実践しようではありませんか。