最新の礼拝の内容

Worship content

礼拝で紹介したみ言葉を投稿しています。

no:13

2017.1.8

神様に帰る
天聖経(罪と蕩減復帰)

私がこの地に人間として生まれ、本然の地上の万物を神様のように愛し、動物を神様のように愛し、人間を神様のように愛したがゆえに神様の相対になったのです。 神様から出発したので神様に帰るのです。 神様は皆さんが生きている間に、何億万倍も素晴らしくなることを願っておられます。 それゆえご自身よりも素晴らしい息子となって帰ってくることを願っておられるという事実なのです。

 私達は真のお父様を通して神様の子女となり永遠の命を得ました。
神様の子女となるまでは永遠の命ではなくこの地上だけの限られた命でした。
その上、永遠の世界、霊界があることを知りませんでした。
しかし、今は違います。
キリストと共に、神様と共に永遠に生きることが出来るのです。
以前と180度違う生活をしているのです。
 ところが目の前の世界は以前と変わっていません。
それ故ややもすれば神様と共に生きているとは言えない生活をしているのではないでしょうか?
真のお父様はどのように生きて来られたのでしょうか?
真のお父様はこの地に人間として生まれ、本然の地上の万物を神様のように愛し、動物を神様のように愛し、人間を神様のように愛したがゆえに神様の愛の相対になられました。
 私達はどうすべきでしょうか?
万物を、動物を、人間を神様のように愛すべきだというのです。
そのように生きなければ永遠の命に至ることが出来ません。
神様の愛の相対になれません。
私達は真のお父様を通して神様と出会いました。
人生を神様と共に出発しました。
出発したのですから神様に帰らなければいけません。
 真のお父様が神様に帰られたように私達も神様に帰るべきではないでしょうか? 
人生を神様と共に出発したのに神様に帰ることが出来なければ悲惨です。
私達が神様のように愛することが出来るまで神様は待っておられます。
私達は人を愛しているでしょうか?
それとも愛していないでしょうか?
愛しているとすればその愛し方でいいのでしょうか? 
間違った愛し方をしていないでしょうか?
自分なりになっていないでしょうか?
私達も如何にしたら神様のように愛することが出来るかを毎日意識しながら生きるべきではないでしょうか?
そして神様と真のお父様からその愛し方でいいよ。と言われる愛し方で人を愛したいとは思いませんか?

no:12

2016.12.18

神様を信じる
天聖経(真の神様より)

 絶対的に神様を信じなさい。 左にも信じることができず、右にも信じることができず、 東西南北、前後左右、全部信じることができません。 絶対的に信じれば中央線に行くのです。 絶対的に信じれば一つの位置を求めていくのです。 絶対的な位置、神様がいらっしゃるところを求めていくのです。 そこからすべてが解かれるのです。 それゆえに信仰には独裁性が多いのです。 話し合うことができません。 ねじれているので強制的にでも角度を合わせなければなりません。 ですから神様がどれほど苦痛で、私たち人類がどれほど苦痛なことでしょうか。

 真のお父様とイエス様は神様を絶対的に信じておられました。
私達はどうでしょうか?神様を信じているでしょうか?
それとも信じていないでしょうか?或いはどれほど信じているでしょうか?
 私達は堕落していたために神様を信じていませんでした。
しかし、真のお父様を通して神様を知り、神様を信じるようになりました。
真のお父様のお姿、生活、行動を見れば神様を信じておられることがわかります。
イエス様の生涯を通しても神様を信じておられることがわかります。
 それでは私達の姿、生活、行動が神様を信じていることを証明しているでしょうか?
それとも神様を信じているとは言えない姿でしょうか?
どちらでしょうか?
 神様を信じて来なかったために神様に角度を合わせられないのです。
それ故に信じ続けることによって神様に角度を合わせなければならないのです。
今私達は神様を信じ続ける努力をしているでしょうか?
神様を信じ続ければどのような人間になるでしょうか?
 神様のようになるのではないでしょうか?
この人は神様を信じている人だなあと周りが感じるのではないでしょうか?
当然自分でも感じるでしょう。
 神様を信じるなら、絶えず神様を意識し、神様を実感しているのではないでしょうか?
神様を意識せず、神様を実感していないのなら神様を信じているとは言えないのではないでしょうか?
そのような姿であれば神様を知る前と何の変わりがあるでしょうか?
全く変わりがないのではないでしょうか?
 このままでいいのでしょうか?
せっかく神様を信じて人生を再出発した私達です。
真のお父様に習い、神様を絶対的に信じる所までたどり着こうではありませんか。
そして神様の子供として相応しい姿になろうではありませんか。

no:11

2016.12.4

神様にしがみつく
天聖経(罪と蕩減復帰より)

エバは二つの世界の母体になりました。 善と悪の中間の立場になったというのです。 それでは善悪の方向を誰が決定しなければならないのでしょうか。 自分自身が決めなければなりません。 サタンを打つことよりも数倍も強く神様にしがみつかなければなりません。 悪を打つためには渾身の力を傾けなければなりません。 それと同時にそれ以上の力で神様にしがみつかなければならないというのです。

 人間始祖の堕落によって私達は神様とサタンの中間の立場になりました。
それゆえに自分自身が善悪の方向を決めなければならないのです。

 悪を打つためには渾身の力を傾けなければならないのです。
そしてそれ以上の力で神様にしがみつかなければならないのです。

 これは真のお父様のみ言です。
ご自身が実践されて私達に語られたのです。
即ち真のお父様は神様にしがみついてこの悪の世界でサタンに勝利して来られたのです。
では私達はどんな生き方をしているでしょうか?

 神様にしがみついて悪に立ち向かっているでしょうか?
それともサタンにしがみつかれたまま身動きがとれない状態でしょうか?
もし毎日時に流されているのであればサタンと縁が切れていません。

 堕落によって私達はサタンと親子の縁を結んだのです。
それゆえにサタンと縁を切り、神様と縁を結ばなければなりません。

 私達は真のお父様によって祝福を受け、神様と親子の縁を持ちましたが、
どこまで縁が結べたでしょうか?

 地位、名誉、財産にしがみついている人も神様にしがみついているとは言えません。
サタンにしがみついている人ではないでしょうか?
私達に絶対に必要なのは神様です。

 自分自身の姿をもう一度振り返ってみましょう。
一番大切な神様にしがみついてこの悪の世の中で生きて行こうとしているのでしょうか?
それとも悪の世界に染まって堕落しているのでしょうか?

 このままではいけないと思いませんか?
神様の子供として悪に立ち向かおうと思いませんか?
そして神様にしがみついて生きて行こうではありませんか。
悪の世界で勝利するためです。

no:10

2016.11.20

神様と通じる
天聖経(真の神様より)

 哲学の最後の終着点は、神様を発見することです。 その神様はどんな神様でしょうか。絶対的な神、不変の神、唯一の神です。 神様を発見することにおいて、その神様は私たち人間に必要な人格的神でなければなりません。 私たち人間と関係を結ぶためには、私たち人間が考えるすべての内外を備え、意志を備え、理想を備えた人格的神でなければならないというのです。 すべての面で通じることができる、情緒面やみ旨的な面や、 または知識的面で私たち人間と通じることができる、 完全に関係を結ぶことができる神様でなければ、 どんなに神様がいると言っても私たちとは完全にかかわることができないのです。

 哲学は神様を発見することが出来ませんでした。
しかし真のお父様は神様を発見されました。
その神様は全ての面で私達人間と通じることが出来る、完全に関係を結ぶことが出来る人格的神様です。

 真のお父様は神様がおられることを私達に教えて下さいました。
それだけではありません。
神様と全ての面で通じられ、完全に関係を結ばれ、完全に関わることが出来たのです。

 そして如何にしたら、父なる神様、人格的な神様と通じることが出来るかをみ言を通して教えて下さいました。
その生き様を通して見せて下さいました。
私達は神様と通じることの出来る子供の立場を与えられました。
では、私達は果たしてイエス様や真のお父様のように神様と通じるようになったでしょうか?

 話は変わりますが、親子が通じ合うこと、夫婦が通じ合うこと、兄弟が通じ合うことも、現実的にはとても難しいとは思いませんか?

 何故この様になったのでしょうか?
それは人間始祖が堕落したからです。
そのため人間は神様と通じることが出来なくなりました。
人間どうしも通じ合えなくなりました。
真のお父様を通して神様と通じることの出来る道が私達に与えられました。
この事は私達にとって最高で最大の恵みです。
しかしまだまだ私達は神様と通じていないのではないでしょうか?

 せっかく与えられた神様との通じ合える関係です。

 神様との関係が一番大切ではありませんか?
キリストが神様を一番大切にされたのですから。
神様と通じる努力をせずに毎日流されていませんか?
目に見えることばかりに心を奪われていませんか?
私達は神様に似ているのです。
神様と通じることが出来るのです。
常に神様を意識し続けましょう。
求め続けて行きましょう。
通じ合えるところまで。
キリストのように。

no:9

2016.11.6

神様と一つになる
天聖経(地上生活と霊界より)

 イエス様に従う弟子たちは、イエス様がローマ帝国を一時に占領して、イスラエルの王として君臨するようになれば、自分たちはそれぞれいい地位につけると思ったのです。 そのようなことが問題ではありません。 まず自分の心の中に天国の基盤を築けなければならないし、 その心を中心として体が神様と一つになり得る基盤を築くべきです。 これがいちばん大きい問題なのです。 天国は、自分自身から始まるのです。 それゆえ、天国の拠点は自分の心だというのです。

 イエス様と真のお父様はこの地上に天国をつくる為に来られました。
それはアダムとエバが堕落してこの地上が地獄となったからです。

 私達はこの地上地獄で生まれました。天国とは全く無縁でした。
その私達にメシヤは天国に至る道を教えて下さいました。

 それはどのような道でしょうか?

 それは自分の心の中に天国の基盤をつくるということです。
その心を中心として神様と一つになり得る基盤を築くということです。
真のお父様は天国の拠点は自分の心だと明言されています。
天国は自分自身から始まるのです。

 このことを私達はどれほど自覚していたでしょうか?
いくら地位、名誉、財産があっても天国を迎えることは出来ないのです。
自分の心が悪では無理なのです。 
自分の心は天国を迎えるに相応しいでしょうか、相応しくないでしょうか?
良い心でしょうか、悪い心でしょうか?
このままでいいのでしょうか?

 自分の心を天国を迎えるに相応しい心にする必要があるのではないでしょうか?
イエス様も真のお父様も天国は私の心にあると言われています。
もっともっと自分の心を大切にしなければいけないと思いませんか?

 まず神様と一つになり得る基盤を如何に築くかを絶えず意識すべきではないでしょうか?
そして私の心が神様の心と一つになるように生きるべきではないでしょうか?
どのような心で生きることが神様と共に生きることなのでしょうか?

 それはイエス様のように生きること、真のお父様のように生きることです。
イエス様も真のお父様も心に天国を迎えておられました。
それは神様のような心を持たれたからです。 

 ところで自分を振り返ってみましょう。
私達の心は神様のような心でしょうか?
それとも自己中心の心でしょうか?
決して神様のような心とは言えないのではないでしょうか?

 私達は自己中心に生きるのではなく、人の為に生きるべきではないでしょうか?
私達も神様のような心を持とうではありませんか?

 それは小さい心ではありません。
狭い心でも、冷たい心でも、醜い心でもありません。

 それは大きい心であり、広い心であり、温かい心であり、美しい心です。
神様は私達にそのような心を持つことを願われています。
美しい心を持つことによって心に天国の基盤を築き、神様と一つになろうではありませんか?