礼拝で紹介したみ言葉を投稿しています。
2016.10.16
知識が多くても、権勢があっても、お金をもったとしても、そのようなものはみな流れていくのです。 もって行くべきものは、神様の愛を世界に拡大するために努力したことです。 人類を愛し、神様を愛したことが最後に残って、あの世の所有権決定の基準になります。
2016.10.2
神様は創造本性の起源であり、悪魔は本来その起源を通じてつくられたので、 相対的基準に立っているというのです。人間を見る時、この起源的基準が良心です。 良心は誰に似ましたか。神様に似ています。ですから神様の味方だというのです。 体は誰に似たかというとサタンに似ているので、サタンの味方だというのです。 良心が体のためにどれだけ犠牲になったでしょうか。 夜も昼も自分を管理するのに疲れているのが良心です。 それでも倒れずに、体が悪いことをしようとするのを防ぐのです。
私達には皆良心があります。良心は神様に似ているというのです。
では私達は神様に似ているでしょうか?
メシヤ(キリスト)は神様に似ていますが、私達は自分の姿を見る限り似ているとは言えないのではないでしょうか?何故でしょうか?
神様に似た良心があるのにです。
メシヤと私達の違いは何でしょうか?
イエス様も真のお父様も100パーセント良心に従って生きられました。
神様の願いだけに生きられました。
それ故にイエス様と真のお父様を通して神様の存在と神様の愛を知ることが出来ました。
私達は良心に従って生きているでしょうか?神様の願いに生きているでしょうか?
私達の姿を見れば明らかです。
自分で自分の姿を直視しましょう。
神様に似ているのか、似ていないのか?
体は誰に似たのか?
サタンに似たというのです。
肉体の欲求、ありとあらゆる自己中心の欲望のために良心の叫びを無視して生きていないでしょうか?
食欲、睡眠欲、所有欲、支配欲、名誉欲、情欲、欲には限りがありません。
良心の声に耳を傾けず、肉体の欲求に負けていないでしょうか?
私達は堕落人間であるという自覚をもっと持たなければいけないのではないでしょうか?
罪無きイエス様、真のお父様が良心に従って生きられたのです。
私達はメシヤと出会う前は良心に従うことの重要性を知りませんでした。
しかし今はみ言を通して知っています。
これまではサタンの味方である体のいうことを聞いて来ました。
み言を聞いてからも聞いて来ました。
このままでいいでしょうか?
私達はメシヤ以上の努力が必要ではないでしょうか?
良心を通して神様に似ることが出来るのです。
神様から与えられた良心を大切にし、
良心の声に耳を傾け、
み言を実践し、
神様の願いに生きて神様に似る神様の子供になろうではありませんか?
2016.9.18
人生において行くべき道は何でしょうか。 神様の愛を占領することが人生において行くべき道です。 神様の愛を占領することが、人生の行くべき最高の終着点です。 この道は、男性も女性も行くべきであり、すべての人たちがみな行くべきなのです。 人生において行くべき道は、無限であられる愛の神様を探すことです。 十回でも百回でも、死の峠を経てでも、絶えず神様の愛を探すのが、 人生において行くべき最高の道なのです。
私達は真のお父様を通して神様を知り、神様の子供になりました。
全ては神様と真のお父様のおかげです。
そして人生の目的が、神様を探し神様の愛を占領することであることを教えていただきました。
しかし問題は今私達が神様を探しているかどうかです。
イエス様も真のお父様も神様を探し、神様の愛を占領することに専念されました。
そのことが人生において一番大切なことだからです。
他のことではありません。
それ故に神様のみに焦点を合わされました。
私達は神様に焦点を合わせ、神様を探すことに専念しているでしょうか?
残念ながら、み言を通して目的は知りましたが、実行出来ていないのではないでしょうか?
何故でしょうか?
神様を探す習慣が出来ていないからではないでしょうか?
神様を探し続ける習慣をつけない限り神様に焦点を合わせることは不可能ではないでしょうか?
イエス様と真のお父様のように罪のないお方でも時間がかかりました。
ましてサタン(蝮)の子であった私達は時間がかかるのは当然ではないでしょうか?
にもかかわらずなんの努力なしに神様を探せるでしょうか?
神様を探し続けても、探さなくても時間は過ぎていきます。
このままでいいのでしょうか?
やらなければいけないことは目の前に多くあります。
しかし今一番しなければいけないことは神様を探し続けて、
神様の愛を占領することではないでしょうか?
今こそこの地上で生きている間に最高の道である神様を探す道を行こうではありませんか?
そのためにもまず神様を探す習慣を付けようではありませんか?
2016.9.5
人間と歴史が何を中心として解決して完成しますか。 神様を知らなければなりません。神様は、人格的な神様でなければなりません。 神様が漠然としてはいけないのです。 私たち自身が具体的であり、知・情・意を備えた人格的な人ならば、 その主体であられる神様も知・情・意を備えた人格的な神であるというのです。 そのように考えるのです。 それでは、神様がもっている多くの属性の中で一番の中心とは何ですか。 情だというのです。 愛だというのです。 神様も生きることにおいて、愛が最も必要なのです。
原理講論の総序にこうあります。
人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、
神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。
私達人間は堕落したアダム、エバの子孫ゆえに無知になりました。
神様との親子関係が切れたと同時に神様がわからなくなったのです。
そして神様が私達の親で人類が兄弟姉妹であることがわからなくなってしまいました。
それゆえこの世界は親子兄弟が殺し合う悲惨な世界になってしまったのです。
この世界にはあらゆる問題がありますが、何によって解決されるのでしょうか?
神様を知ることによってしか解決が出来ません。
私達は原理(真のお父様)を通して神様を知りました。
しかし問題は解決されずに沢山残っています。
何故でしょうか?神様を漠然としか知らないからではないでしょうか?
もっともっと神様を知らなければいけないのではないでしょうか?
イエス様と真のお父様は神様をどこまで知ることが出来たのでしょうか?
限りなく知る努力をされたのではないでしょうか?
だからこそ最高、最善の解決の道を歩まれました。
それゆえに私達は他のことではなく神様を知る努力をし続けることこそ
最初にすべきことではないでしょうか?
2016.8.21
天国に行き、地獄へ行く二つの道があるとすれば、 天国を訪ねてくる人と地獄へ行く人とでは、どちらがより多いでしょうか。 地獄へ行く人々が、より多いことでしょう。 それを見つめる神様の心情はどうでしょうか。 どれほどあぜんとするでしょうか。 地獄とは関係なく天国に来て、膨大なこの国の民になって、 愛を中心として神様とともに生きなければならない息子、娘たちが、 みな地獄へ行くのを見るとき、どれほどあぜんとするかというのです。
私達は真のお父様を通して神様との親子関係を取り戻しました。
そして地獄で生きていた私達に神様と共に生きる道が切り開かれました。
しかし今私達は神様と共に生きているでしょうか?
間違いなくイエス様と真のお父様は神様と共に生きられました。
なぜなら神様のように誰も差別せず、平等に愛されたからです。
しかし人は愛されましたが、罪は愛されませんでした。
私達はどうでしょうか?
神様と出会う前まで私達は神様の子供である自覚も神様に対する意識もありませんでした。
では神様と出会った私達は以前と変わって兄弟を愛しているでしょうか?
それとも以前と変わらず同じままでしょうか?
同じままということは愛することを知らないサタン(蝮)の子の時のままということではありませんか?死んでいるのとかわりがないではありませんか?
兄弟を愛していてこそ生きていると言えるのではないでしょうか?
神様と真のお父様は私達が生きることを願っておられます。
私達が生きる道は兄弟を愛する以外にはないのではないでしょうか?
神様の願いに応えて兄弟を愛する努力をしようではありませんか?
そこから神様と共に生きる道が切り開かれるのではないでしょうか?
私達は真のお父様のみ言を通して父なる神様が私達を愛しておられることを知りました。
更に真のお父様の姿を通して神様がいかに私達を愛され、且つ愛され続けて下さっているかも知りました。
堕落していた私達は神様から愛されてはきましたが、ただ一方的に愛されただけでした。
今私達は神様を愛しているでしょうか?
ところで私達は地上で生きていますが、地上生活で一番すべきことは何でしょうか?
真のお父様は「知識が多くても、権勢があっても、お金を持ったとしても、
そのようなものはみな流れて行くのです。」と言われています。
知識でも権勢でもお金でもないのです。
それらのものは霊界に持って行くことが出来ないのです。
ゆえにそれは人類を愛することであり、神様を愛することなのです。
父なる神様が一番願われることは何でしょうか?
私達の兄弟である人を愛することではないでしょうか?
では愛するとは一体どういうことでしょうか?
関心を持つこと。
思いやりの心で接すること。
温かい心で接すること。
相手の心を大切にすること。
人を生かす言葉を使うこと。
そのような生き方を私達はしているでしょうか?
もし逆に無関心で、
思いやりもなく、
冷たい心で、
相手の心を無視し、
人を殺す言葉を使っているとすればそれはもはや神様を愛しているとは言えないのではないでしょうか?
そしてそれはサタン(蝮)の子であった時となんら変わりがないではありませんか?
私達はいつも神様から愛されているのですから、
真のお父様やイエス様のように兄弟を愛すべきではないでしょうか?
兄弟を愛せない者が神様の子供と言えるでしょうか?
兄弟を愛することが出来てこそ神様の子供ではありませんか?
兄弟を愛することが出来なければ地上に天国が出来るでしょうか?
地上生活で人を愛することが出来てこそ神様の懐である天国に行くことが出来るのです。
神様も真のお父様も全ての人を分け隔てなく愛しておられます。
私達も全ての人を分け隔てなく愛せる者になろうではありませんか?
兄弟を愛することは神様を愛することなのですから。