天聖経(地上生活と霊界より)
神様は創造本性の起源であり、悪魔は本来その起源を通じてつくられたので、 相対的基準に立っているというのです。人間を見る時、この起源的基準が良心です。 良心は誰に似ましたか。神様に似ています。ですから神様の味方だというのです。 体は誰に似たかというとサタンに似ているので、サタンの味方だというのです。 良心が体のためにどれだけ犠牲になったでしょうか。 夜も昼も自分を管理するのに疲れているのが良心です。 それでも倒れずに、体が悪いことをしようとするのを防ぐのです。

教会長のコメント
Comment from
the head of the church
神様に似る
私達には皆良心があります。良心は神様に似ているというのです。 では私達は神様に似ているでしょうか? メシヤ(キリスト)は神様に似ていますが、私達は自分の姿を見る限り似ているとは言えないのではないでしょうか?何故でしょうか? 神様に似た良心があるのにです。 メシヤと私達の違いは何でしょうか? イエス様も真のお父様も100パーセント良心に従って生きられました。 神様の願いだけに生きられました。 それ故にイエス様と真のお父様を通して神様の存在と神様の愛を知ることが出来ました。 私達は良心に従って生きているでしょうか?神様の願いに生きているでしょうか? 私達の姿を見れば明らかです。 自分で自分の姿を直視しましょう。 神様に似ているのか、似ていないのか? 体は誰に似たのか? サタンに似たというのです。 肉体の欲求、ありとあらゆる自己中心の欲望のために良心の叫びを無視して生きていないでしょうか? 食欲、睡眠欲、所有欲、支配欲、名誉欲、情欲、欲には限りがありません。 良心の声に耳を傾けず、肉体の欲求に負けていないでしょうか? 私達は堕落人間であるという自覚をもっと持たなければいけないのではないでしょうか? 罪無きイエス様、真のお父様が良心に従って生きられたのです。 私達はメシヤと出会う前は良心に従うことの重要性を知りませんでした。 しかし今はみ言を通して知っています。 これまではサタンの味方である体のいうことを聞いて来ました。 み言を聞いてからも聞いて来ました。 このままでいいでしょうか? 私達はメシヤ以上の努力が必要ではないでしょうか? 良心を通して神様に似ることが出来るのです。 神様から与えられた良心を大切にし、 良心の声に耳を傾け、 み言を実践し、 神様の願いに生きて神様に似る神様の子供になろうではありませんか?
天聖経(地上生活と霊界より)
人生において行くべき道は何でしょうか。 神様の愛を占領することが人生において行くべき道です。 神様の愛を占領することが、人生の行くべき最高の終着点です。 この道は、男性も女性も行くべきであり、すべての人たちがみな行くべきなのです。 人生において行くべき道は、無限であられる愛の神様を探すことです。 十回でも百回でも、死の峠を経てでも、絶えず神様の愛を探すのが、 人生において行くべき最高の道なのです。

教会長のコメント
Comment from
the head of the church
神様を探す
私達は真のお父様を通して神様を知り、神様の子供になりました。 全ては神様と真のお父様のおかげです。 そして人生の目的が、神様を探し神様の愛を占領することであることを教えていただきました。 しかし問題は今私達が神様を探しているかどうかです。 イエス様も真のお父様も神様を探し、神様の愛を占領することに専念されました。 そのことが人生において一番大切なことだからです。 他のことではありません。 それ故に神様のみに焦点を合わされました。 私達は神様に焦点を合わせ、神様を探すことに専念しているでしょうか? 残念ながら、み言を通して目的は知りましたが、実行出来ていないのではないでしょうか? 何故でしょうか? 神様を探す習慣が出来ていないからではないでしょうか? 神様を探し続ける習慣をつけない限り神様に焦点を合わせることは不可能ではないでしょうか? イエス様と真のお父様のように罪のないお方でも時間がかかりました。 ましてサタン(蝮)の子であった私達は時間がかかるのは当然ではないでしょうか? にもかかわらずなんの努力なしに神様を探せるでしょうか? 神様を探し続けても、探さなくても時間は過ぎていきます。 このままでいいのでしょうか? やらなければいけないことは目の前に多くあります。 しかし今一番しなければいけないことは神様を探し続けて、 神様の愛を占領することではないでしょうか? 今こそこの地上で生きている間に最高の道である神様を探す道を行こうではありませんか? そのためにもまず神様を探す習慣を付けようではありませんか?
天聖経(人間の生と霊魂の世界)
人間と歴史が何を中心として解決して完成しますか。 神様を知らなければなりません。神様は、人格的な神様でなければなりません。 神様が漠然としてはいけないのです。 私たち自身が具体的であり、知・情・意を備えた人格的な人ならば、 その主体であられる神様も知・情・意を備えた人格的な神であるというのです。 そのように考えるのです。 それでは、神様がもっている多くの属性の中で一番の中心とは何ですか。 情だというのです。 愛だというのです。 神様も生きることにおいて、愛が最も必要なのです。

教会長のコメント
Comment from
the head of the church
神様を知る
原理講論の総序にこうあります。 人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、 神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。 私達人間は堕落したアダム、エバの子孫ゆえに無知になりました。 神様との親子関係が切れたと同時に神様がわからなくなったのです。 そして神様が私達の親で人類が兄弟姉妹であることがわからなくなってしまいました。 それゆえこの世界は親子兄弟が殺し合う悲惨な世界になってしまったのです。 この世界にはあらゆる問題がありますが、何によって解決されるのでしょうか? 神様を知ることによってしか解決が出来ません。 私達は原理(真のお父様)を通して神様を知りました。 しかし問題は解決されずに沢山残っています。 何故でしょうか?神様を漠然としか知らないからではないでしょうか? もっともっと神様を知らなければいけないのではないでしょうか? イエス様と真のお父様は神様をどこまで知ることが出来たのでしょうか? 限りなく知る努力をされたのではないでしょうか? だからこそ最高、最善の解決の道を歩まれました。 それゆえに私達は他のことではなく神様を知る努力をし続けることこそ 最初にすべきことではないでしょうか?