最新の礼拝の内容

Worship content

礼拝で紹介したみ言葉を投稿しています。

no:23

2017.6.4

神様が中心になる
天聖経(真の家庭と「家庭盟誓」より)

平和の世界において根源となるものとは何でしょうか。神様が中心になるのです。神様を中心として、神様のみ旨と神様の創造理想を中心として、その方向を一致させ、目的の一致を成し遂げるところにおいて、平和の世界が可能だったのです。神様のみ旨とは何でしょうか。これは重要な問いです。統一教会では、神様のみ旨は何であるといいますか。第一は、創造理想を完成することです。簡単です。それでは、創造理想の完成とは何でしょうか。四位基台の完成です。四位基台の完成とは何でしょうか。理想的家庭です。簡単なことです。その理想家庭になっているかということが問題です。

 平和の世界が何故訪れなかったのでしょうか?
それは神様が根源なのに、神様が中心になっていなかったからです。
では何故神様が中心になっていなかったのでしょうか?
アダムとエバが堕落して神様との親子関係が切れてしまったからです。
 堕落によって人間は自己中心になりました。
神様のように愛し続ける心を失ったのです。
 そのため神様はイエス様を送られました。
それ故イエス様は天国の到来を告げられたのです。
それは神様が中心になっておられたからです。
イエス様は敵を許し続けられました。
神様のように人を愛され続けられました。
神様が中心となるところから天国が訪れることを知っておられたからです。
神様のように人を愛するところからしか平和の世界は訪れません。
だからイエス様は神様のように生きられました。
 真のお父様も神様のように敵を許し続けられました。
そして私達を愛し続けられました。
神様が中心になっておられたからです。
 私達はどうでしょうか?
神様が中心になっているでしょうか?
それともアダムとエバのように自己中心でしょうか?
神様が中心になっていれば私達の心は神様の心のようになるはずです。
神様が中心になっていれば私達の家庭は理想家庭になるはずです。
 当然神様と切れていれば神様が中心になりません。
神様を意識していなければ神様が中心になりません。
しかし神様を意識していても神様が中心になりません。
それぐらい神様とかけ離れているのです。
 どうすれば神様が中心になるのでしょうか?
神様が中心になっていたイエス様、真のお父様に似る以外にないのではないでしょうか?
今からでもイエス様、真のお父様に似る努力をしようではありませんか。
そのためにもイエス様、真のお父様のみ言を信じ実践しようではありませんか。

no:22

2017.5.21

神様の聖殿になる
天聖経(真の家庭と「家庭盟誓」より)

真の愛の主体者であられる神様は、真の愛の相対者として人間を立てました。神様の愛の理想は、人間を通じてのみ完成するのです。神様の創造目的は、神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。人間は、神様の最高最善の愛の対象として造られました。それゆえに、人間は、創造物の中で唯一、神様の実体をもった対象です。無形の神様の前に見える体で生まれました。人間は、完成すれば神様の聖殿になります。神様が自由に、また平安に、いつでも入って滞在できる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の全体的理想は、人間を通じて、父母と子女の縦的関係によって実現し完成します。

 私達人間は完成すれば神様の聖殿になります。
そのように神様は人間を造られました。
神様の最高最善の愛の対象として造られました。
そして神人愛一体の絶対的愛の理想世界が実現するはずでした。
 しかしアダムとエバの堕落によって人間はサタンの住みかになりました。
この世界は理想世界ではなく地上地獄になりました。
今も毎日のように不倫と殺人が繰り返されています。
堕落し神様と似ても似つかない姿になりました。
神様が人間の親であることも分からなくなりました。
 2000年前イエス様が来られて神様が父であることを教えて下さいました。
そして私達が神の宮であることを教えて下さいました。
しかし人間は神様の聖殿になることが出来ませんでした。
それはイエス様が使命半ばで十字架にかかったためでした。
 イエス様が果たせなかった使命を果たすために真のお父様が来られました。
私達が神様の聖殿になるために祝福を下さいました。
原理のみ言、そして多くのみ言を下さいました。
それでは私達は神様の聖殿になっているでしょうか?
なっていればイエス様のように、真のお父様のようになっているはずです。
 私達は絶えず如何にすれば神様の聖殿になれるかを考えるべきではないでしょうか?
そして神様の聖殿になれるように生活すべきではないでしょうか?
どうしたら私の心に神様をお迎え出来るだろうか?
どうしたら私の心に神様に住んでいただけるだろうか?
神様は私達の心に住みたいと願っておられます。
 しかし私達は神様をお迎えしよう、住んでいただこうと願っているでしょうか?
神様を忘れていないでしょうか?
神様は私達を忘れることがないのにです。
私達は改めて自分が神様の子供であることを自覚しようではありませんか。
神様の聖殿になる努力を継続しようではありませんか。
み言を信じ実践しようではありませんか。
それが神様と真のお父様の願いなのですから。

no:21

2017.5.7

神様に帰る(2)
天聖経(真の家庭と「家庭盟誓」より)

歴史的な闘いを終息させるためには、神様に帰らなければなりません。まず、神様を中心として個人の心と体が一つにならなければなりません。そして、そのような真なる男性と真なる女性が、神様を中心として真の家庭を築くことによって、その中に再び神様を迎えるようになるのです。したがって、真の愛を中心とした真の家庭こそ、神様が宿る地上基地となるのであり、さらには真の国家と真の平和世界の出発地になるのです。そして、これによって、真の自由と幸福の世界が開かれるのです。

  歴史的な闘いを終息させるためには、神様に帰らなければなりません。
こう真のお父様は言われています。

ところで歴史的な闘いとは何でしょうか?
それは個人の心と体が闘っていることです。
ではいつ歴史的な闘いが始まったのでしょうか?
人間始祖が堕落した時から始まりました。
私達は神様を中心として心と体を一つにしなければなりません。

しかし今もなお人間の心と体は闘い続けています。
私達の心と体は闘い続けているのです。
それは私達と神様との親子関係が切れていたからです。
 ところで歴史上心と体が一つになった人はいたでしょうか?
まずイエス様がおられました。
そして真のお父様がおられます。
神様を中心として心と体が一つになっておられます。
 私達は神様に帰らなければなりません。
神様抜きで心と体は一つになれないのです。
私達はこれまで神様との親子関係が切れていました。
しかし今は真のお父様を通して神様と親子になりました。
心と体が一つになる道が開かれたのです。
 自己中心であった私達が神様中心になればいいのです。
神様を中心にして生きる。生き続ける。
ここから始めていきましょう。
私達は自己中心で生き続けて来ました。
これからは神様中心に生きる習慣をつけようではありませんか。
そして神様に帰り、神様中心に生きる人生を送ろうではありませんか。
イエス様のように。真のお父様のように。
 これまでのように心と体が闘う自分でいいのでしょうか?
今こそ心と体を一つにしようではありませんか。
これまでの自分に別れを告げようではありませんか。

no:20

2017.4.16

神様が共に生きる
天聖経(真の家庭と「家庭盟誓」より)

今まで、神様が共に暮らすことができる家庭がなく、国がなく、世界がなかったということは繰り返して言うまでもありません。皆さんは、常にこのような概念をもたなければなりません。私自身においても、神様が共に生きることができず、世界においても生きることができなかったのです。そのような神様を再びお迎えし、堕落した世界のいかなる孝子、いかなる忠臣、いかなる聖人、いかなる聖子よりも、高い位置において神様に侍って生活しなければならないという、そのような信仰のモットーを強化しなければなりません。

 人間始祖の堕落によって何が起きたのでしょうか?
神様が人間と共に生きることが出来なくなりました。
しかし二千年前、神様は再び人間と共に生きることが出来ました。
そのお方がイエス様です。33年間神様が共に生きられました。
しかしイエス様の十字架によって神様は再び孤独になられました。
神様が共に生きる人間がいなくなりました。
 神様は二千年間待たれ真のお父様と共に生きることが出来ました。
真のお父様は神様が共に生きることの出来る心を持たれました。
イエス様も神様が共に生きることの出来る心を持たれました。
 私達はどうでしょうか? 
神様が共に生きることの出来る心を持っているでしょうか?
私達はこれまで蝮(サタン)の血統でした。
それ故に神様が共に生きる心ではありませんでした。
 今はどうでしょうか?
神様が共に生きることの出来る人間になっているでしょうか?
そのような心を持っているでしょうか?
私達は神様の血統、神様の子女になりました。
しかし神様の血統になれば神様が共に生きることが出来るのでしょうか?
自分の姿、自分の心を見て神様が共に生きているといえるでしょうか?
神様があなたと共に生きたいといえる姿になっているでしょうか?
自己中心のままでどうして神様が共に生きることが出来るでしょうか?
それではサタンの血統と変わらないではありませんか。
このままでは神様が共に生きることが出来ません。
 それでは私達は一体どうすべきでしょうか?
神様があなたと共に生きたいといえる姿になるべきではないでしょうか?
そのような心、そのような姿になる努力が必要ではないでしょうか?
イエス様と真のお父様は敵を愛されました。
 私達はどうでしょうか?
敵を愛し、敵の為に祈っているでしょうか?
まず隣人を愛し、隣人の為に祈る所から始めようではありませんか。
神様の子女として神様が共に生きることの出来る姿になる為に。
まずみ言を訓読し、み言を実践しようではありませんか。
神様が共に生きる人間になる為に。
それが神様の願いなのだから。

no:19

2017.4.2

神様を身代わりする
天聖経(真の家庭と「家庭盟誓」より)

「家庭盟誓」は、すべて初めに「真の愛を中心として」から始まるのです。復帰の道は、神様と一つになった真の愛の道から出発するのです。故郷に行っても神様を身代わりし、真の御父母様を身代わりしなければなりません。

 真のお父様は私達にどこに居ても神様を身代わりしなければならないと言われています。
では私達はどこに居ても神様を身代わりしているでしょうか?
いつでも神様を身代わりしているでしょうか?
或いは神様を身代わりしている自覚があるでしょうか?
 もし実感が無く、自覚が無ければどうすべきでしょうか?
まず神様の子女であり、神様を身代わりしているという意識を持つべきではないでしょうか?
神様と一つになった真の愛の道から出発していれば自然と神様を身代わりします。
しかし神様と一つになっていないために神様を身代わり出来ていません。
それは私達が蝮(サタン)の子女だったからです。
 神様と一つになる努力が必要です。
そして真の愛の実践が必要です。
即ち真の愛を中心にして生きることが必要なのです。
サタンを中心に偽りの愛の中で私達は生きてきました。
そのため真の愛を中心して生きることはとても難しいのです。
 自分自身が真の愛を実践しているのか?
絶えず振り返ってみなければいけないのではないでしょうか?
過去はサタンを身代わりして来たのですから。
その上神様を身代わりすることはとても難しいのですから。
未だに神様を身代わり出来ていないのではないか?
どうしたら神様を身代わり出来るのだろうか?
真の愛を中心にして生きているだろうか?
 私達は神様の身代わりの立場です。
絶えず自分を顧みながら神様を身代わりする人生を送ろうではありませんか。
神様のように、キリストのように隣人に接して行こうではありませんか。
神様を身代わりするに相応しい姿になろうではありませんか。
それが神様と真のお父様の願いなのですから。